医師・歯科医師のための「知財から考える」事業承継(第5回)
第5回 患者情報は誰のもの?
――「患者リスト」は、院長個人の財産なのか、医院の資産なのか
「患者さんは、私についてきてくれている。」
長年、地域で診療を続けてきた医師や歯科医師であれば、そのように感じることもあるでしょう。
実際、患者の中には、
「先生がいるから、この医院に通っている」
という方もいます。
では、院長が引退し、後継者に医院を承継するとき、その患者に関する情報は誰が引き継ぐのでしょうか。
先代院長でしょうか。
後継者でしょうか。
それとも、医院や医療法人でしょうか。
一般企業であれば、「顧客リストは会社の財産である」と考えられることがあります。
しかし、医院の場合、問題はそれほど単純ではありません。
なぜなら、患者に関する情報には、
• 氏名
• 住所
• 電話番号
• 生年月日
• 受診履歴
• 病歴
• 検査結果
• 治療内容
など、極めて重要な個人情報や医療情報が含まれているからです。
したがって、「患者情報は医院の財産だから、自由に引き継げる」とも、「患者は院長個人についてきたのだから、患者情報も院長個人のものだ」とも、簡単には言えません。
医院の事業承継では、土地や建物、設備、預金といった目に見える財産だけでなく、こうした「患者情報」をどのように扱うかが重要な問題になります。
今回は、患者情報は、いったい誰のものなのか。という問いから、医院承継における情報の問題を考えてみたいと思います。
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1.「患者リスト」という言葉に違和感はないでしょうか
一般企業では、顧客の氏名や連絡先などをまとめたものを、「顧客リスト」と呼ぶことがあります。
そして、その顧客リストには大きな経済的価値があります。
どのような顧客がいるのか。誰が何を購入したのか。どの顧客に営業すればよいのか。
こうした情報は、企業にとって重要な営業上の資産です。
しかし、医院の場合、患者に関する情報を単純に「顧客リスト」と呼んでしまうと、少し違和感があります。
患者は、単なる「営業先」ではありません。患者の情報には、健康や身体に関する極めてセンシティブな情報が含まれています。
例えば、患者名簿に氏名や住所だけが記載されている場合でも、それが医療機関の患者名簿であること自体から、一定の情報が読み取れる場合があります。
さらに診療録や電子カルテには、診療内容、病歴、検査結果など、患者の重要な情報が記録されています。
したがって、医院承継の場面で、「患者リストを誰に渡すのか」という問題を考えるときには、一般企業の営業秘密や顧客情報とは異なる視点が必要になります。
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2.患者は「院長のもの」なのでしょうか
長年、一人の院長が診療を続けていると、「患者は自分についてきてくれている」という感覚が生まれることがあります。
特に、個人開業医の場合には、医院そのものと院長個人の存在が強く結び付いています。
患者にとっても、「○○医院に行く」というより、「○○先生に診てもらう」という意識が強いこともあるでしょう。
しかし、だからといって、患者そのものが院長の「所有物」になるわけではありません。
もちろん、患者には医療機関を選択する自由があります。
院長が引退した後も同じ医院に通う患者もいれば、別の医療機関へ移る患者もいます。
つまり、「患者は自分についてくるから、その患者情報も自分のものだ」という考え方だけでは、患者情報を扱うことはできません。
患者情報には、患者自身の権利やプライバシーに関わる問題も含まれているからです。
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3.では、患者情報は「医院のもの」なのでしょうか
では逆に、「患者情報は医院のものだ」と考えればよいのでしょうか。
これも、簡単ではありません。
例えば、個人で医院を経営していた院長が引退し、その医院を別の医師が引き継ぐ場合を考えてみましょう。
建物や医療機器を引き継ぐことと、患者に関する情報をどのように取り扱うかは、同じ問題ではありません。
また、医療法人が運営している医院の場合には、医師個人、医療法人、医院、患者、という複数の関係者が存在します。
ここで重要なのは、患者情報は、単純な「経営資産」としてだけ扱うことはできない、ということです。
事業承継に際して、「患者情報も事業と一緒に譲渡する」という発想だけで進めると、思わぬ問題が生じる可能性があります。
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4.「診療録」と「患者名簿」は同じものではない
患者情報と一口にいっても、その中身はさまざまです。
例えば、患者名簿に含まれる情報
• 氏名
• 住所
• 電話番号
• 生年月日
• 受診履歴
などがあります。
一方、診療録や電子カルテには、
• 病歴
• 診断内容
• 検査結果
• 治療内容
• 処方内容
• 経過
など、より詳細な情報が含まれます。
この二つを、「どちらも患者の情報だから同じ」と一括りに考えるのは適切ではありません。
情報の性質や、保存・管理の必要性、承継時の取扱いについて、それぞれ検討する必要があります。
特に、診療録については、単なる営業資料とはまったく異なる性質を持っています。
したがって、知的財産の観点から「情報資産」としての価値を考える場合にも、まず、何の情報について問題にしているのか。を整理する必要があります。
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5.患者情報には「経済的価値」があるのか
ここで、知財の観点から一歩踏み込んで考えてみましょう。
患者情報は、医院の経営にとって価値があるのでしょうか。
例えば、過去にどのような患者が受診したのか。どの地域から患者が来ているのか。どのような診療ニーズがあるのか。こうした情報は、医院の経営を考える上で重要な情報となり得ます。
その意味では、患者に関する情報には、経済的な価値がある側面もあります。
しかし、ここで注意しなければならないのは、「経済的な価値がある」ことと、「自由に利用できる」ことは別の問題、だということです。
例えば、企業の顧客情報であれば、一定の条件の下で営業秘密として保護されることがあります。
しかし、患者情報の場合には、個人情報や医療情報としての側面が強く、単純に、「価値のある情報だから営業秘密として守ればよい」という話ではありません。
むしろ、まず考えなければならないのは、誰が、どのような目的で、その情報を取り扱うことができるのか。
ということです。
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6.事業承継と「患者の選択」は別の問題
ここで、もう一つ重要な点があります。
医院を承継したからといって、「患者も当然に承継される」わけではありません。
医院の経営主体が変わっても、患者自身が、「これからもこの医院に通う」と選択することもあれば、「別の医院へ行く」と選択することもあります。
つまり、患者そのものは事業承継の対象ではありません。
ここは非常に重要な点です。
土地や建物であれば、所有権を移転することができます。医療機器であれば、譲渡することができます。
しかし、「患者を譲渡する」ことはできません。承継できるのは、患者そのものではなく、あくまで一定の条件の下で適切に管理・利用されるべき情報や、診療を継続するための体制です。
この違いを理解しないと、「患者数が多いから医院の事業価値が高い」という経営上の議論と、「患者情報をどのように承継できるのか」という法的・倫理的な議論を混同してしまいます。
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7.先代院長が患者情報を持ち出したら?
では、逆のケースを考えてみましょう。
先代院長が引退後、新たに別の医院を開業しました。
そして、以前の医院に通っていた患者に対して、「新しい医院を開業しました」と案内を送ろうと考えました。
この場合、以前の医院に保管されていた患者情報を利用してよいのでしょうか。
あるいは、勤務していた医師が退職後に、「以前診ていた患者に、新しい勤務先を知らせたい」
と考えた場合はどうでしょうか。
ここには、患者情報の管理主体、個人情報の取扱い、診療情報の性質など、さまざまな問題が関係します。
単純に、「自分が診察していた患者だから」という理由だけで、自由に患者情報を持ち出したり、別の目的に利用したりできるとは限りません。
医院承継の際に先代院長と後継者との関係が悪化すると、このような問題が現実化することがあります。
だからこそ、承継前から、
• 患者情報を誰が管理するのか
• 誰がアクセスできるのか
• 引退後の先代院長はどのような情報を扱えるのか
• 後継者はどの情報を引き継ぐのか
を整理しておく必要があります。
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8.「患者情報を守ること」と「医院を承継すること」
医院承継では、二つの目的を両立させる必要があります。
一つは、患者情報を適切に保護すること。
そしてもう一つは、患者が必要な医療を継続して受けられるようにすること。
例えば、先代院長が突然亡くなった場合、患者の診療情報に後継者や必要な医療従事者がアクセスできなければ、診療の継続に支障が生じる可能性があります。
一方で、「承継するのだから、すべての情報を自由に使ってよい」ということでもありません。
ここに、医療分野の事業承継の難しさがあります。
一般企業の事業承継では、「顧客情報をどう引き継ぐか」という問題になるかもしれません。
しかし、医院の場合には、「患者の権利やプライバシーを守りながら、どう診療を継続するか」という問題になります。
この違いを理解することが重要です。
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9.知財の視点から見る「患者情報」
弁理士が患者情報について考える場合、「営業秘密になるか」「情報資産としてどのような価値があるか」という視点を持つことがあります。
もちろん、この視点は重要です。
例えば、患者に関する情報の中には、医院の経営上、価値を持つ情報もあるでしょう。
しかし、医療分野では、知的財産の視点だけで結論を出すことはできません。
患者情報には、
• 個人情報
• プライバシー
• 医療情報
• 守秘義務
• 診療継続
といった、複数の問題が重なっています。
したがって、医院の事業承継を支援する際には、
「これは営業秘密になるか」という問いだけでは不十分です。
その前に、「そもそも、この情報を誰が管理し、誰が利用できるのか」を考える必要があります。
そして、その上で、「どの情報が医院の経営上の重要な情報資産なのか」を整理していくことになります。
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10.承継前に考えておきたい「患者情報の5つの問い」
医院の事業承継を考える際には、次のような問いから整理を始めるとよいでしょう。
① 患者情報は、現在、誰が管理しているか
院長個人でしょうか。
医療法人でしょうか。
複数のスタッフがアクセスできる状態でしょうか。
まず、現在の管理体制を確認する必要があります。
② どのような情報が、どこに保存されているか
電子カルテだけではありません。
予約システム、会計システム、紙の診療録など、患者情報は複数の場所に存在している可能性があります。
③ 院長しかアクセスできない情報はないか
特定の個人しかアクセスできない状態では、突然の病気や死亡などの際に問題が生じる可能性があります。
④ 承継後、誰がどの情報を管理するのか
後継者、医療法人、スタッフなどの役割を整理します。
⑤ 先代院長が引退した後、患者情報をどのように扱うのか
「引退するから関係がなくなる」のではなく、診療情報や管理権限について整理が必要になる場合があります。
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おわりに――患者情報は「誰かのもの」という発想だけでは整理できない
今回のテーマは、「患者情報は誰のものか?」でした。
しかし、ここまで考えてくると、この問いには、「先代院長のものです」
あるいは、「医院のものです」と簡単に答えられないことが分かります。
患者情報は、一般企業の顧客リストとは異なる性質を持っています。
患者自身の重要な個人情報であり、診療の継続にも関わる情報です。
一方で、医院を経営していく上では、重要な情報資産としての側面もあります。
だからこそ、事業承継の際には、「誰のものか」という所有の発想だけではなく、「誰が管理するのか」「誰がアクセスできるのか」「どのような目的で利用できるのか」という視点から考える必要があります。
そして、次に問題になるのが、「患者情報は、知的財産として守ることができるのか?」という点です。
例えば、一般企業の顧客リストについては、一定の要件を満たせば「営業秘密」として保護される可能性があります。
では、医院の患者情報についても同じように考えてよいのでしょうか。
次回は、
第6回 患者情報は「営業秘密」になるのか?
――一般企業の顧客リストとは違う、医療情報の特殊性
というテーマで、患者情報と営業秘密、そして不正競争防止法との関係について考えていきます。