医師・歯科医師のための「知財から考える」事業承継(第6回)

第6回 患者情報は「営業秘密」になるのか?
――患者リストの持ち出しから考える、不正競争防止法と医療情報

ある日、医院を退職した医師が、近くに新しいクリニックを開業しました。
そして、その直後から、以前勤務していた医院の患者のもとに、
「このたび、新しく開業しました」
という案内が届き始めました。
院長は不思議に思います。
「なぜ、新しい医院のことを患者さんが知っているのだろう」
調べてみると、退職した医師が、以前の医院にあった患者の連絡先を利用していた可能性がある。
このような場面で、医院側としては、
「患者リストを勝手に持ち出された」
「医院の大切な情報を盗まれた」
と考えるかもしれません。
一般企業であれば、顧客リストを持ち出して競合会社で不正利用するという問題は、よく知られています。
では、医院の患者情報についても同じように、
「営業秘密だから、不正競争防止法で守られる」
と考えてよいのでしょうか。
答えは、そう単純ではありません。
患者情報には、医院の経営上の価値を持つ側面がある一方で、氏名や連絡先だけでなく、診療内容や病歴など、極めて慎重に取り扱うべき個人情報が含まれています。
今回は、具体的な「患者情報の持ち出し」という場面から、患者情報と営業秘密の関係について考えてみます。
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1.「患者リストを持ち出した」とは、具体的に何を持ち出したのか
まず重要なのは、
「患者リスト」には、実はさまざまな種類がある
ということです。
例えば、
• 患者の氏名
• 住所
• 電話番号
• メールアドレス
• 生年月日
• 受診履歴
• 担当医師
• 治療内容
• 病歴
• 検査結果
これらをすべてまとめて「患者リスト」と呼んでしまうと、それぞれの情報の性質の違いが見えなくなります。
例えば、
「患者の氏名と住所を一覧にした名簿」
と、
「患者ごとの病歴や治療経過が記録された電子カルテ」
では、情報の性質も、管理方法も、持ち出した場合の問題も大きく異なります。
したがって、
「患者リストを持ち出したから営業秘密侵害だ」
と、すぐに結論を出すことはできません。
まず、
何の情報が、どのような形で管理されていたのか
を確認する必要があります。
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2.患者情報は「医院の営業秘密」になり得るのか
不正競争防止法では、一定の要件を満たす情報を「営業秘密」として保護しています。
一般的には、次の三つの要件が重要になります。
① 秘密として管理されていること
これを「秘密管理性」といいます。
例えば、
• 患者情報にアクセスできる人を限定している
• 電子カルテにIDやパスワードを設定している
• 情報の取扱規程を定めている
• 職員に守秘義務を課している
• 患者情報を含むデータを自由に持ち出せないようにしている
といった管理が考えられます。
重要なのは、単に、
「これは秘密です」
と院長が思っているだけでは不十分だということです。
情報を取り扱う職員などが、
「これは秘密として管理されている情報である」
と認識できるような状態になっていることが重要になります。

② 事業活動に役立つ情報であること
これを「有用性」といいます。
一般企業の顧客リストであれば、
「誰に営業をすればよいか」
を知ることができるため、事業活動に役立つ情報として評価される可能性があります。
医院の患者情報についても、情報の内容によっては、医院の経営や事業活動にとって価値を持つ側面があります。
例えば、
• 継続的に診療を受けている患者に関する情報
• 予約や受診履歴に関する情報
• 患者との連絡に必要な情報
などは、医院の運営に必要な情報でもあります。
ただし、ここで注意が必要です。
患者情報について、
「経営に役立つ情報だから、自由に営業目的で利用できる」
という意味ではありません。
患者情報には、個人情報保護や医療情報としての取扱いに関する問題があります。
したがって、
営業秘密としての「有用性」と、個人情報として「何に利用できるか」は別の問題
として考える必要があります。

③ 公然と知られていないこと
これを「非公知性」といいます。
例えば、医院のホームページに掲載されている情報は、多くの人が見ることができます。
一方、患者の氏名や連絡先、受診履歴などは、通常、公にされている情報ではありません。
したがって、患者情報については、情報の内容によっては非公知性が認められる可能性があります。
ただし、
「世の中に知られていない情報であれば、すべて営業秘密になる」
わけではありません。
先ほどの秘密管理性や有用性も含め、要件を満たすかを個別に検討する必要があります。
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3.最大のポイントは「秘密管理性」
実務上、特に重要になるのが、最初の要件である秘密管理性です。
例えば、ある医院では、患者情報が入った共有フォルダを、
「スタッフなら誰でも自由に閲覧できる」
状態にしていました。
特にアクセス権限の設定もなく、USBメモリなどへのコピーも自由です。
退職時にも、
「患者情報を持ち出してはいけません」
という説明や確認は特にしていません。
このような状態で、退職した職員が患者情報をコピーして持ち出した場合、医院側が、
「これは営業秘密だった」
と主張しても、秘密管理の実態が問題になる可能性があります。
つまり、
情報が重要であることと、法律上の営業秘密として保護されることは別です。
これは、医院に限った話ではありません。
企業が、
「顧客リストは大切な会社の財産だ」
と考えていても、実際には誰でもアクセスでき、自由にコピーできる状態であれば、営業秘密としての保護を受ける上で問題が生じる可能性があります。
医院の場合には、そもそも患者情報について適切なアクセス管理を行う必要があります。
その意味で、個人情報保護や医療情報の管理体制を整えることは、患者を守るだけでなく、
重要な情報を適切に管理し、その情報資産を守るという意味でも重要
だといえるでしょう。
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4.具体例――退職するスタッフが患者情報をコピーした
ここで、もう少し具体的なケースを考えてみましょう。
ある歯科医院では、予約システムに患者の情報が保存されていました。
そこには、
• 患者の氏名
• 電話番号
• メールアドレス
• 来院履歴
• 次回予約
などが登録されています。
長年勤務していたスタッフが退職し、近隣の別の歯科医院に勤務することになりました。
退職前、そのスタッフは予約システムから患者情報を大量に出力し、自宅のパソコンに保存しました。
その後、以前の医院に通っていた患者の一部に対し、新しい勤務先の情報が送られたとします。
この場合、医院側としては、
「患者情報を持ち出して利用された」
と考えるでしょう。
しかし、実際に法的な問題を検討するためには、さらに詳しい事実関係を確認する必要があります。
例えば、
• そのスタッフは、どの範囲の患者情報にアクセスできたのか
• データは秘密情報として管理されていたのか
• 持ち出しを禁止する規程はあったのか
• 退職時に守秘義務について確認していたか
• 新しい勤務先で実際にその情報を利用したのか
• 患者への連絡は、どの情報を使って行われたのか
といった点です。
つまり、
「患者情報を持ち出した」という一つの出来事の中にも、複数の法律問題が含まれています。
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5.「患者情報=営業秘密」と決めつけてはいけない
ここで特に注意したいのは、
「患者情報なのだから、当然に営業秘密である」
と考えないことです。
営業秘密として保護されるためには、先ほど見た三つの要件について検討が必要です。
また、患者情報の場合には、仮に営業秘密としての保護が問題になる場合であっても、それとは別に、
• 個人情報保護
• 医療における守秘義務
• 診療情報の適切な管理
• 患者との信頼関係
といった問題があります。
したがって、弁理士や知財コンサルタントが医院の情報管理について助言する場合にも、
「営業秘密になるように管理しましょう」
だけでは十分ではありません。
むしろ、
「患者情報を適切に管理した結果として、情報の秘密管理性という観点も問題になり得る」
という順番で考える方が、医療分野では自然でしょう。
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6.では、どうすれば「秘密として管理」できるのか
営業秘密の三要件の中でも、医院が比較的取り組みやすいのは、秘密管理の仕組みを整えることです。
例えば、患者情報について、
① アクセスできる人を必要な範囲に限定する
すべての職員が、すべての患者情報を見る必要があるとは限りません。
業務内容に応じてアクセス権限を設定することが考えられます。
② ID・パスワードを個人ごとに管理する
「全員が同じIDを使用する」という状態では、誰がいつアクセスしたのか把握しにくくなります。
可能であれば、個人ごとのアカウント管理が望ましいでしょう。
③ 持ち出しのルールを明確にする
USBメモリ、私用メール、クラウドサービスなどを利用して、患者情報を自由にコピーできる状態になっていないか確認します。
④ 職員との守秘義務を明確にする
入職時だけでなく、退職時にも、患者情報を含む秘密情報の取扱いについて確認することが重要です。
⑤ 何が秘密情報なのかを明確にする
患者情報だけでなく、
• 経営情報
• 料金に関する情報
• 独自の診療ノウハウ
• マーケティング情報
など、医院として重要な情報を整理しておくことも必要です。
ここで重要なのは、単に書面を作ることだけではありません。
実際のアクセス権限やデータ管理と、規程や契約の内容が一致している必要があります。
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7.「営業秘密を守ること」と「患者情報を守ること」は重なり合うが、同じではない
ここまでの話を整理すると、
患者情報を営業秘密として守る
ことと、
患者情報を個人情報・医療情報として適切に守る
ことは、重なり合う部分があります。
しかし、同じではありません。
例えば、営業秘密では、
• 秘密管理性
• 有用性
• 非公知性
が問題になります。
一方、患者情報については、
そもそも誰が利用できるのか。
どのような目的で利用できるのか。
誰に提供できるのか。
といった問題があります。
したがって、
「営業秘密になるように管理すれば、それで患者情報の問題がすべて解決する」わけではありません。
むしろ、医療機関では、
患者情報を適切に管理する
↓
アクセス権限や持ち出しルールを整える
↓
結果として、情報の秘密管理性という観点からも整理される
という順番で考える方がよいでしょう。
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8.事業承継の場面では、さらに複雑になる
医院の通常の退職とは別に、事業承継ではさらに問題が複雑になります。
例えば、
先代院長が引退する。
後継者が医院を引き継ぐ。
このとき、患者情報を適切に管理しながら、診療を継続する必要があります。
一方で、先代院長が引退後に、
「自分が診ていた患者の情報だから」
といって、自由に患者情報を持ち出せるとは限りません。
また、後継者も、
「医院を引き継いだから、以前の患者情報を自由に使える」
と単純に考えるべきではありません。
重要なのは、
誰が患者情報を管理する立場にあるのか。
診療の継続のために、誰がアクセスする必要があるのか。
承継後、どのようなルールで情報を取り扱うのか。
を整理することです。
ここでは、知的財産権の承継とは異なり、単純な「権利の譲渡」という発想では整理できません。
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9.「持ち出された後」に争うより、「持ち出せない仕組み」を作る
患者情報の持ち出しが発覚した場合、
「営業秘密侵害ではないか」
「不正競争防止法に違反しているのではないか」
といった問題を検討することになります。
しかし、実際には、持ち出された後に対応するよりも、
そもそも、重要な情報を無断で持ち出しにくい仕組みを作る方が重要です。
例えば、
• アクセス権限を必要な範囲に限定する
• データの出力やダウンロードを管理する
• 個人のUSBメモリへのコピーを制限する
• 私用メールへの送信を禁止する
• 退職時にアカウントを停止する
• 秘密情報の返還・削除を確認する
といった対策です。
これは、患者情報だけの問題ではありません。
医院の中には、
• 患者情報
• 経営情報
• 職員情報
• 独自の診療ノウハウ
• マニュアル
• 取引先情報
など、さまざまな情報があります。
これらをすべて同じように扱うのではなく、
「何を、誰から守る必要があるのか」
を整理することが、知財を活用した情報管理の第一歩になります。
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10.医院承継前に確認したい「情報管理の7項目」
医院の承継を考える場合には、患者情報について、次のような点を確認しておくとよいでしょう。
① 患者情報はどこに保存されているか
電子カルテ、予約システム、会計システム、紙の診療録などを確認します。
② 誰がアクセスできるか
院長、医師、歯科医師、看護師、スタッフなど、それぞれのアクセス範囲を整理します。
③ 個人ごとのID管理ができているか
共通IDではなく、誰がアクセスしたのか把握できる体制になっているか確認します。
④ 情報の持ち出しに関するルールがあるか
USB、メール、クラウドなどへのコピーについて確認します。
⑤ 職員との守秘義務が整理されているか
雇用契約や就業規則、誓約書などを確認します。
⑥ 退職・承継時のアカウント管理ができているか
退職者や引退した院長が、いつまでもアクセスできる状態になっていないか確認します。
⑦ 承継後の情報管理者が明確になっているか
後継者、医療法人、管理責任者などの役割を整理します。
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おわりに――「営業秘密になるか」より前に考えるべきこと
患者情報について、
「営業秘密として守れるのか」
という問いは、知財の観点から非常に重要です。
しかし、医院の事業承継という場面では、その前に考えるべきことがあります。
それは、
患者情報を、誰が、どのように管理しているのか。
ということです。
情報が適切に管理されていなければ、そもそも営業秘密として保護されるかという問題が生じる可能性があります。
一方で、患者情報は、単なる営業上の秘密情報ではありません。
患者のプライバシーや診療の継続にも関わる、特別な情報です。
そのため、
「患者リストは医院の財産だから守る」
というだけでは不十分です。
患者情報を適切に管理し、
その中で、
経営上、重要な情報は何か。
秘密として管理すべき情報は何か。
誰がアクセスする必要があるのか。
を整理していく必要があります。
そして、ここで次の問題が出てきます。
患者情報そのものとは別に、医院には、
「長年の診療の中で蓄積されたノウハウ」
があります。
例えば、
• 患者対応の方法
• 独自の診療手順
• カウンセリングの方法
• 治療説明のノウハウ
• スタッフ教育の方法
などです。
これらは、先代院長が長年の経験によって築き上げてきたものかもしれません。
では、院長が引退したとき、そのノウハウは誰に引き継がれるのでしょうか。

2026年09月18日