医師・歯科医師のための「知財から考える」事業承継(第7回)
第7回 医院の「診療ノウハウ」は誰のもの?
――先代院長の経験と、後継者に引き継ぐべき「見えない資産」
「この医院のことは、私が一番よく分かっています。」
長年、医院を経営してきた院長から、このような言葉を聞くことがあります。
確かに、長年診療を続けていれば、院長の頭の中には、さまざまな知識や経験が蓄積されています。
例えば、
「この患者さんには、最初にこう説明した方がよい」
「この症例では、ここを特に確認する」
「このスタッフには、この仕事を任せると医院がうまく回る」
「この地域の患者さんには、このような対応が喜ばれる」
といったことです。
これらは、医院を長年運営してきたからこそ身についた「ノウハウ」といえるでしょう。
ところが、いざ事業承継となると、一つの問題が浮かび上がります。
「そのノウハウを、後継者にどうやって引き継ぐのか?」
そして、もう一つ、
「そのノウハウは、そもそも誰のものなのか?」
という問題もあります。
今回は、医院に蓄積された「見えない資産」を、
①先代院長の頭の中にある経験・ノウハウ
と、
②マニュアルや手順書などに記録されたノウハウ
に分けて考えてみます。
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1.院長の頭の中にある「ノウハウ」
まず、最も引き継ぎにくいのが、
院長の頭の中にあるノウハウ
です。
例えば、長年診療してきた歯科医師が、
「この患者さんは、まず話をよく聞いてから治療方針を説明した方がよい」
と経験的に判断していたとします。
あるいは、
「この症例では、通常の手順よりもこの点を先に確認する」
という判断基準を持っているかもしれません。
こうした知識は、教科書やマニュアルに書かれているとは限りません。
長年の経験の中で、
経験
↓
試行錯誤
↓
成功・失敗
↓
判断基準の形成
という過程を経て、院長自身の中に蓄積されています。
これは、医院にとって非常に重要な「見えない資産」です。
しかし、問題があります。
院長が引退すると、そのノウハウも一緒に医院から失われる可能性がある
ということです。
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2.「院長の経験」は、そのままでは引き継ぎにくい
事業承継というと、
• 建物
• 医療機器
• 診療所の設備
• 医療法人
• 従業員
• 医院名
などを思い浮かべることが多いでしょう。
しかし、実際には、
「先代院長が長年培ってきた経験」
も、医院の価値を支えていることがあります。
例えば、患者とのコミュニケーション。
診療技術そのものだけでなく、
「どのような順番で説明するか」
「どこまで説明するか」
「患者の不安をどう取り除くか」
といった部分が、医院の評判につながっていることがあります。
ところが、こうしたノウハウは、
「院長の頭の中」にある限り、事業承継の対象として扱うことが難しい
のです。
「私が30年間やってきたから分かる」
というだけでは、後継者は同じようにできません。
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3.一方、マニュアルにすれば「引き継げる」
そこで重要になるのが、
暗黙知を形式知に変える
という考え方です。
少し難しい言葉ですが、簡単に言えば、
「院長の頭の中にあるノウハウを、他の人が利用できる形にする」
ということです。
例えば、
「初診患者への説明手順」
「カウンセリングの進め方」
「治療前に確認する事項」
「患者からクレームがあった場合の対応」
「新人スタッフの教育手順」
などを文書化していきます。
すると、
院長個人の経験
だったものが、
医院として共有できる情報
へと変わっていきます。
これは事業承継において非常に大きな意味を持ちます。
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4.「経験」と「マニュアル」は何が違うのか
ここで両者を比較してみましょう。
院長の頭の中のノウハウ マニュアル・手順書
存在する場所 院長の経験・記憶 文書・データ
他人への伝達 難しい 比較的容易
承継 難しい しやすい
内容の統一 人によって変わる 統一しやすい
改訂 院長の経験に依存 組織的に可能
知財上の検討 状況により営業秘密等 著作権・営業秘密等の検討余地
この違いは、事業承継を考える上で非常に重要です。
「医院のノウハウを承継する」と言っても、
頭の中にあるノウハウを承継するのか
記録されたノウハウを承継するのか
では、意味が大きく異なります。
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5.マニュアルを作れば、それだけで「医院の財産」になるのか?
では、院長が自分の経験をマニュアルにまとめれば、それは当然に医院の財産になるのでしょうか。
ここでも、注意が必要です。
例えば、院長が個人的に作成した文書を、
「これは私が作ったものだから、私のものだ」
と考える場合があります。
一方、医院の業務としてスタッフが作成したマニュアルであれば、
「医院の業務のために作成されたものだから、医院側が利用できる」
ということも考えられます。
ここでは、誰が作成したのか、どのような契約・就業関係の下で作成されたのか、どのように利用・管理されているのかなどを確認する必要があります。
特に文書として作成されたマニュアルについては、内容によっては著作権の問題も関係してきます。
ただし、
「マニュアルだから著作権がある」
という単純な話でもありません。
単なる事実や一般的な手順、ありふれた表現などについて、どこまで著作権による保護が及ぶかは、具体的な内容によって異なります。
したがって、
「マニュアル=著作権」ではなく、「どのような創作的表現が含まれているのか」を見る必要があります。
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6.マニュアルには「営業秘密」という別の側面もある
一方、マニュアルについては、著作権とは別に、
営業秘密としての保護
を考えることもできます。
例えば、医院独自の、
• 患者対応方法
• カウンセリング手法
• スタッフ教育方法
• 業務改善方法
• 独自のサービス提供方法
などがマニュアルとして整理されているとします。
その内容が、
• 公然と知られていない
• 医院の事業活動に有用である
• 秘密として管理されている
という要件を満たす場合には、営業秘密として保護される可能性があります。
ここで前回の第6回とのつながりが出てきます。
前回は患者情報について、
「営業秘密として守るためには、秘密として管理されていることが重要」
という話をしました。
これは、医院のノウハウについても同じです。
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7.「秘密にしているつもり」では足りない
例えば、院長が作った、
「当院独自の患者対応マニュアル」
があったとします。
ところが、そのファイルが医院の共有フォルダに置かれ、誰でも自由に閲覧でき、外部への持ち出しについても何のルールもありません。
この場合、
「これは当院の極秘ノウハウです」
と院長が考えていたとしても、営業秘密として保護されるための「秘密管理性」が問題になる可能性があります。
反対に、
• 閲覧できるスタッフを限定する
• ファイルにアクセス権限を設定する
• 「社外秘」などの表示をする
• 持ち出しを禁止する
• 職員に守秘義務を課す
など、適切な管理を行っていれば、秘密として管理していることが明確になります。
つまり、
「大切なノウハウだから秘密」
ではなく、
「大切なノウハウだから、秘密として管理する」
という発想が必要です。
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8.事業承継では「ノウハウを守る」だけでは不十分
ここで、事業承継という本来のテーマに戻りましょう。
医院のノウハウについて、
「外部に漏れないように秘密管理しましょう」
というだけでは、承継対策としては不十分です。
なぜなら、承継では、
後継者がそのノウハウを使えるようにしなければならない
からです。
例えば、先代院長だけが知っている、
「この患者さんには、このように説明する」
というノウハウがあったとします。
秘密として守ることには成功していても、先代院長しか知らなければ、引退後には医院から失われてしまいます。
つまり、
秘密にすること
と、
承継できるようにすること
は、一見すると反対のようですが、実際には両方が必要なのです。
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9.「秘密にする」と「共有する」をどう両立させるか
これは、医院の知財管理で非常に重要な考え方です。
例えば、あるノウハウについて、
誰にも教えない
という管理方法では、確かに秘密は守れます。
しかし、それでは事業承継できません。
そこで、
「必要な人には共有するが、外部には漏らさない」
という管理が重要になります。
例えば、
先代院長
ノウハウを整理・言語化する
↓
後継者
承継前からノウハウを学ぶ
↓
スタッフ
必要な範囲でマニュアルを共有する
↓
外部
秘密として管理し、アクセスさせない
という構造です。
このように考えると、
「秘密管理」と「事業承継」は両立できる
ことが分かります。
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10.「院長しか知らないノウハウ」は、実は承継リスク
医院にとって非常に危険なのは、
「それは院長しか分からない」
という状態です。
例えば、
「この患者さんへの対応方法は院長しか知らない」
「この業者との特殊な取引条件は院長しか知らない」
「この治療説明のやり方は院長しかできない」
「この機器の特殊な使い方は院長しか分からない」
という状態です。
こうしたノウハウは、院長が元気に診療している間は問題になりません。
しかし、
• 引退
• 病気
• 死亡
• 急な退職
などが起きると、一気に医院のリスクになります。
つまり、
「院長に依存したノウハウ」は、医院の強みであると同時に、事業承継上の弱点にもなり得る
のです。
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11.「マニュアル化」は、単なる業務効率化ではない
マニュアルを作るというと、
「スタッフ教育のため」
「業務を効率化するため」
というイメージが強いかもしれません。
もちろん、それも重要です。
しかし、事業承継という視点から見ると、もう一つの意味があります。
それは、
医院に蓄積されたノウハウを、院長個人から医院という組織に移す
ということです。
これは非常に重要です。
先代院長の頭の中にしか存在しなかった知識を、
文書
↓
データ
↓
マニュアル
↓
組織の共有知
へと変えていく。
こうすることで、医院は、
「院長がいなくても一定の品質を維持できる組織」
に近づいていきます。
これは、事業承継の準備そのものでもあります。
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12.ただし、「何でもマニュアル化」すればよいわけではない
ここにも注意が必要です。
医療には、患者ごとの個別性があります。
したがって、
「この患者には必ずこの対応をする」
と一律に決められるものばかりではありません。
また、医師・歯科医師の専門的な判断についても、単純なマニュアルだけで代替できるものではありません。
そこで、
何を標準化し、何を専門家の判断に委ねるのか
を分けて考えることが重要です。
例えば、
マニュアル化しやすいもの
• 受付手順
• 電話対応
• 初診時の基本的な案内
• 医療機器の操作手順
• 清掃・衛生管理の手順
• スタッフ教育
• クレーム対応の基本フロー
一方で、
個別判断が必要なもの
• 患者ごとの診療方針
• 症例に応じた治療判断
• 医師・歯科医師としての専門的判断
• 患者ごとのコミュニケーション
などがあります。
この区別をすることも、承継準備の一つです。
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13.先代院長の「経験」を、後継者にどう渡すか
では、頭の中にあるノウハウをどうやって後継者に引き継げばよいのでしょうか。
一つの方法は、
「言語化する」
ことです。
例えば、先代院長に、
「この医院で、特に大切にしていることは何ですか?」
と聞いてみます。
さらに、
「患者さんとの関係で、これまで特に気をつけてきたことは?」
「新人には必ず教えていることは?」
「この医院独自のやり方は?」
「長年やってきて、失敗から学んだことは?」
といった質問を重ねます。
すると、院長自身も意識していなかったノウハウが少しずつ言葉になっていきます。
これは単なる「引き継ぎ資料作成」ではありません。
医院が長年培ってきた価値を発見する作業
でもあります。
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14.「ノウハウの棚卸し」をしてみる
事業承継を考えるのであれば、一度、
「院長の頭の中にあるもの」
を棚卸ししてみることをお勧めします。
例えば、次のように分類できます。
A 診療に関するノウハウ
• 診療手順
• 患者への説明
• 症例への対応
• 診療上の工夫
B 患者対応に関するノウハウ
• 初診対応
• カウンセリング
• クレーム対応
• 高齢患者への対応
C 医院経営に関するノウハウ
• スタッフ配置
• 採用
• 教育
• 業者との関係
• 地域との関係
D ブランドに関するノウハウ
• 医院の理念
• 接遇
• ホームページの表現
• SNSの運用
• 地域への情報発信
こうしてみると、
「医院のノウハウ」
という言葉の中に、実に多くの情報が含まれていることが分かります。
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15.知財の観点から見る「ノウハウの承継」
では、知財の観点から、この問題をどう捉えればよいのでしょうか。
重要なのは、
医院のノウハウを、知的財産として一括りにしない
ことです。
例えば、
ノウハウ 関係し得る知財・法的保護
独自の診療方法 特許等が問題となる場合がある
業務上の独自手法 営業秘密等
マニュアルの文章 著作権等
医院独自の名称 商標権
ロゴ・図案 商標権・著作権等
写真・動画 著作権等
患者情報 個人情報・営業秘密等
というように、一つの「ノウハウ」の中にも複数の知財・法的問題が存在します。
だからこそ、事業承継の際には、
「知財があるか、ないか」
という二択ではなく、
「医院にはどのような無形資産が存在し、それぞれをどのように承継するのか」
という視点が重要になります。
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16.承継前に「院長の頭の中」を整理する
医院の事業承継を考えるなら、次のような作業をしてみるとよいでしょう。
STEP 1 院長しか知らないことを書き出す
まず、
「院長に聞かなければ分からないこと」
を全部書き出します。
STEP 2 それを分類する
診療、患者対応、経営、スタッフ、業者、ブランドなどに分類します。
STEP 3 後継者に必要なものを選ぶ
すべてを後継者に渡す必要があるわけではありません。
STEP 4 文書化する
必要なものをマニュアルや引継書などにします。
STEP 5 秘密情報を特定する
外部に知られたくない情報については、アクセス権限や秘密管理の方法を検討します。
STEP 6 承継後の管理者を決める
「誰がその情報を管理するのか」を明確にします。
こうすることで、
先代院長の「経験」
を、
医院の「組織的なノウハウ」
へと変えていくことができます。
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おわりに――「院長が辞めても残る医院」をつくる
医院の事業承継で本当に難しいのは、
建物を引き渡すこと
だけではありません。
医療機器を引き渡すことでもありません。
むしろ難しいのは、
先代院長が長年かけて築いてきた「見えない資産」を、どうやって後継者に引き継ぐか
という問題です。
その中には、
院長の経験
患者との接し方
診療上の工夫
スタッフとの関係
医院独自の業務方法
ブランドを維持するための考え方
など、さまざまなものがあります。
そして、これらを、
「院長しか知らない経験」
のままにしておくのか、
それとも、
「医院として共有できるノウハウ」
へと変えていくのか。
ここに、事業承継の成否を左右する大きな違いがあります。
知財の観点から見れば、マニュアルやノウハウには、著作権や営業秘密など、さまざまな保護の可能性があります。
しかし、それ以上に重要なのは、
「医院の価値を、院長個人から医院という組織へ移していく」
という発想です。
院長が変わっても、医院の価値が残る。
それこそが、事業承継における「知財」の大きな役割の一つなのではないでしょうか。