医師・歯科医師のための「知財から考える」事業承継(第8回上)
第8回(上) 診療マニュアルを持って退職してもいい?
――「自分が作った資料だから自分のもの」は通用するのか
医院の承継を考えるとき、意外に問題になりやすいのが「マニュアル」です。
診療の手順、患者さんへの説明方法、スタッフ教育の方法、受付での対応、クレーム対応、業者とのやり取り――。
長年医院を経営してきた院長であれば、こうした情報をまとめた資料を何冊も作っているかもしれません。
では、そのマニュアルを作ったのが先代院長本人だった場合、そのマニュアルは誰のものなのでしょうか。
先代院長が医院を退くとき、
「これは私が自分で作ったものだから、持って帰ります」
と言うことはできるのでしょうか。
あるいは、
「自分の経験をまとめただけだから、後継者に渡す必要はありません」
ということもできるのでしょうか。
実は、この問題は単純ではありません。
今回は、「先代院長が自分で作ったマニュアル」を取り上げます。
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1.「自分が作ったものだから、自分のもの」?
例えば、こんな医院を考えてみましょう。
院長のA先生は、30年以上にわたって医院を経営してきました。
A先生は、診療そのものだけでなく、医院の運営についても多くの工夫を積み重ねてきました。
そこで、長年の経験をもとに、
• 初診患者への対応方法
• 電話対応の基本
• クレームがあった場合の対応
• スタッフ教育の手順
• 新人受付スタッフの研修内容
• 診療前後の院内業務
• 特定の患者層への対応上の注意点
• 医療機器の取り扱い
• 業者との連絡方法
• 院内で守るべきルール
などを、少しずつ文書にまとめていきました。
これらの資料には、A先生自身の経験や工夫がたくさん詰まっています。
やがて息子のB先生が後継者となることになりました。
ところが、承継直前になってA先生が言います。
「このマニュアルは私が30年間かけて作ったものです。
私の財産ですから、持っていきます。」
さて、これはどう考えればよいのでしょうか。
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2.まず、「マニュアル」と「ノウハウ」を分けて考える
ここで重要なのは、「マニュアル」と「ノウハウ」は同じものではないということです。
第7回では、先代院長の頭の中にある経験や技能を取り上げました。
例えば、
「この患者さんには、最初にこういう説明をした方がよい」
「このスタッフには、この順番で仕事を教えると覚えやすい」
「このケースでは、ここを確認してから次の処置に進む」
といった情報です。
これは、院長の経験・技能として、頭の中に存在しています。
ところが、それを文章に書き出した瞬間、少し性質が変わります。
例えば、
「初診時には①問診、②○○の確認、③△△の説明、④次回予約の確認を行う」
という形で整理されれば、それは文書として存在する情報になります。
さらに、
• 写真
• 図表
• イラスト
• 説明文
• チェックリスト
• フローチャート
などを使って体系的にまとめれば、そこには著作権の問題が生じる可能性もあります。
つまり、
「院長の頭の中にあるノウハウ」
と
「そのノウハウを文章や図表などにしたマニュアル」
は、分けて考える必要があります。
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3.「作った人」と「権利を持つ人」は、必ずしも同じではない
著作権について考えるとき、よくある誤解があります。
それは、
「作った人=必ずその資料を自由に使える人」
という考え方です。
もちろん、自分自身のために自分で作った創作物であれば、原則として作成者と著作権者が一致するケースは多いでしょう。
しかし、医院の承継を考える場合には、
誰が作ったのか
だけではなく、
どのような立場で、何のために作ったのか
を見る必要があります。
例えば、
• 院長が個人的に研究するために作った資料なのか
• 医院のスタッフが実際に使うために作った資料なのか
• 医院の業務手順として作成したものなのか
• 医院の研修制度の一環として作ったものなのか
• 医院の患者対応を統一するために作ったものなのか
によって、意味合いが変わってきます。
特に、組織の業務として作成された著作物については、著作権法上の「職務著作」の問題が生じることもあります。
したがって、
「院長が作った」
という一言だけで、直ちに「院長個人のもの」と決めつけることはできません。
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4.さらに重要なのが「何のために作ったのか」
医院の承継では、ここが非常に重要です。
例えば、A先生が自分の診療技術を整理するために個人的に作ったノートと、
医院のスタッフ全員が使用するために作った「院内業務マニュアル」では、同じ「A先生が作った資料」でも意味が違います。
個人的な研究ノート
A先生自身が、
「自分の診療経験を整理しておこう」
という目的で作ったもの。
これは、A先生個人の知識・経験との結びつきが強いでしょう。
医院の業務マニュアル
一方、
「誰が担当しても一定の対応ができるようにする」
という目的で作った資料であれば、医院の業務そのものとの結びつきが強くなります。
例えば、受付カウンターの横に置かれ、スタッフが日常的に参照していたのであれば、
それは単なる「院長個人のメモ」とは言いにくくなります。
ここで重要なのは、
「誰が作ったか」だけではなく、「医院の中でどのように使われてきたか」
を見ることです。
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5.「紙のファイル」と「その中身の権利」も別問題
もう一つ、承継の現場で混同されやすいのが、
資料そのものを所有していること
と、
その資料の著作権を持っていること
は別だという点です。
例えば、A先生が作成したマニュアルの原本が医院のキャビネットに保管されていたとします。
そのファイル自体を誰が保管するのかという問題と、
そのマニュアルをコピーしたり、改変したり、電子化したり、別の医院で利用したりできるのかという著作権の問題は、別々に考える必要があります。
つまり、
「ファイルを後継者に渡したから、著作権も当然に後継者に移った」
とは限りません。
逆に、
「著作権が院長にあるから、医院にある原本も持って帰ってよい」
とも限りません。
「資料の引渡し」と「権利の承継」は別問題
なのです。
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6.「ノウハウ」なら自由に持っていけるのか?
ここで、もう一つ注意したいのが「ノウハウ」です。
例えばA先生が、
「この患者層には、この説明方法が有効だった」
「この治療を行うときは、この点に注意するとトラブルが少ない」
といった経験を長年蓄積していたとします。
こうした情報のすべてが、著作権で保護されるわけではありません。
著作権は、基本的には「表現」を保護する制度だからです。
そのため、
アイデア・知識・経験そのもの
と、
それを文章・図表・マニュアルなどとして表現したもの
は区別する必要があります。
しかし、だからといって、
「著作権がないなら、何をしても自由」
というわけでもありません。
その情報が医院において秘密として管理され、事業活動に有用で、公然と知られていない情報であれば、不正競争防止法上の「営業秘密」に該当する可能性があります。
営業秘密については、①秘密管理性、②有用性、③非公知性という3つの要件が基本となります。
したがって、
著作権の問題
と
営業秘密の問題
は、別々に検討する必要があります。
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7.医院のマニュアルには「営業秘密」になり得る情報もある
例えば、医院独自の業務上の工夫がマニュアルに記載されているとします。
その内容が、
• 医院独自の患者対応方法
• 独自のスタッフ教育方法
• 独自の業務フロー
• 特定のサービスを提供するための運用方法
• 他院との差別化につながる業務上の工夫
などであり、かつ適切に秘密として管理されている場合には、営業秘密として保護される可能性があります。
逆に、
「このマニュアルは医院にとって重要だから、営業秘密です」
と医院側が考えているだけでは十分ではありません。
実際に、
• 誰がアクセスできるのか
• どこに保管しているのか
• パスワードなどの管理をしているか
• スタッフに秘密情報であることを認識させているか
• 退職時に返却・削除させているか
といった管理状況が重要になります。
つまり、「大切な情報」=「営業秘密」ではないのです。
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8.では、先代院長はマニュアルを持って帰ってはいけないのか?
ここまで読むと、
「では、先代院長は自分で作ったマニュアルを一切持って帰れないのか?」
という疑問が出てきます。
しかし、これも一律に「ダメ」と考えるのは適切ではありません。
大切なのは、
その資料が何なのか
を一つ一つ確認することです。
例えば、
A 院長個人の研究資料
個人的な研究や学習のために作成した資料。
B 医院の業務マニュアル
スタッフが日常業務で使用してきた資料。
C 医院独自の業務ノウハウをまとめた資料
医院の競争力や業務上の工夫が記載されている資料。
D 患者情報を含む資料
患者の氏名、病歴、治療内容などが含まれている資料。
これらを全部まとめて、
「院長が作ったから院長のもの」
と判断することはできません。
特にDのように患者情報が含まれるものは、著作権や営業秘密だけではなく、個人情報保護など別の観点からも慎重な取り扱いが必要です。
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9.承継時には「マニュアルの棚卸し」をする
では、医院の承継を予定している場合、何をすればよいのでしょうか。
まずお勧めしたいのが、
マニュアルの棚卸し
です。
例えば、次のような表を作ってみます。
資料 作成者 使用目的 保管場所 主な利用者 承継後の取扱い
診療手順書 院長 診療業務 院内PC 医師 後継者へ
受付マニュアル 院長 スタッフ教育 受付PC 受付スタッフ 医院に残す
クレーム対応
マニュアル 院長 院内対応 共有フォルダ 全スタッフ 医院に残す
個人研究ノート 院長 個人研究 自宅PC 院長 個別判断
患者対応記録 院長・スタッフ 診療 電子カルテ等 医療従事者 適切に承継・管理
このように一覧にしてみると、
「これは医院に残すべきものでは?」
「これは個人的な資料では?」
「これは患者情報を含んでいる」
「これは後継者が引き続き使用できるようにしておく必要がある」
といった問題が見えてきます。
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10.承継で本当に大切なのは「誰のものか」だけではない
ここまで読んでいただくと、
「結局、このマニュアルは院長のものですか?医院のものですか?」
という疑問が残るかもしれません。
もちろん、権利関係を整理することは重要です。
しかし、医院承継という観点から見ると、もっと重要な問いがあります。
それは、
「承継後も、このマニュアルを誰が、どのように使える状態にしておくのか」
ということです。
例えば、先代院長しか知らない業務方法をマニュアルにしたのに、承継時にそのマニュアルを持って帰ってしまえば、後継者は医院運営に必要な情報を失ってしまいます。
反対に、後継者にすべての資料を渡せばよいというものでもありません。
患者情報や個人的な研究資料など、慎重な扱いが必要なものもあります。
つまり、承継時には、
「持っていくか、残すか」
だけではなく、
「誰が、どの目的で、どこまで利用できるのか」
まで整理する必要があります。
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11.「院長の頭の中」から「医院の資産」へ
第7回では、
「院長しか知らない」
という状態が、医院承継の大きなリスクになることを説明しました。
今回のマニュアルの問題は、その次の段階です。
院長の頭の中にあったノウハウをマニュアルにしたとしても、
「作ったのは院長だから、院長が自由に持っていける」
と単純に考えてしまえば、せっかく形式知化したノウハウが承継できない可能性があります。
逆に、
「医院の業務に必要な情報を、適切な形で整理し、承継後も利用できるようにしておく」
ことができれば、先代院長の経験を医院という組織に残すことができます。
これは、医院承継における「知財」の重要な役割の一つです。
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12.承継前に確認しておきたい5つのこと
最後に、先代院長が作ったマニュアルについて、承継前に確認しておきたいポイントをまとめます。
① 誰が作ったのか
院長本人なのか、スタッフなのか、外部業者なのか。
② 何のために作ったのか
個人的な研究資料なのか、医院の業務のためなのか。
③ どのように使われてきたのか
院長だけが使っていたのか、スタッフ全員が業務で使っていたのか。
④ どのような情報が含まれているのか
単なる一般的な情報なのか、医院独自のノウハウなのか、患者情報などが含まれているのか。
⑤ 承継後、誰が利用するのか
後継者だけなのか、スタッフも引き続き使うのか、それとも廃棄・削除すべきものなのか。
この5点を整理するだけでも、承継時のトラブルはかなり減らせます。
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まとめ
「自分が作った資料だから、自分のもの」。
これは、一見すると分かりやすい考え方です。
しかし、医院承継の場面では、それだけでは判断できません。
マニュアルには、
• 著作権
• ノウハウ
• 営業秘密
• 個人情報
• 契約関係
など、複数の問題が重なっているからです。
そして何より重要なのは、
「誰が作ったか」だけではなく、「医院の中で何のために作られ、どのように使われてきたのか」
を見ることです。
先代院長が長年かけて作ったマニュアルは、単なる紙の束ではありません。
そこには、先代院長が築いてきた医院運営の経験や工夫が詰まっています。
だからこそ、承継の際には、
「持っていってよいか」
だけではなく、
「後継者に何を残すべきか」
という視点から整理することが大切なのです。
そして、ここで新たな疑問が生まれます。
もし、そのマニュアルを作ったのが先代院長ではなく、医院のスタッフだったらどうでしょうか。
「これは私が作ったマニュアルだから、退職するときにコピーして持っていきます。」
スタッフからそう言われた場合、医院はどう対応すればよいのでしょうか。
次回は、「スタッフが作ったマニュアル」を取り上げます。